勉強の意味を定義せよ

端的にいってしまえば勉強したことをmother-tongueで出力する場がほしいんです。

勉強の意味を定義せよ

以後、このブログは全面的に社会に対して開かれていることを約束する。

そして、願わくば世界の最高の知性を持った人々にいつかは到達し、読んでもらうことを目標としている。

そうする理由は、人の目に、白日のもとに晒して初めて、

思考は、その精度を高めていくことが可能になるからである。

ちょうど、自分の部屋を整理するのが最も捗るのは、自分1人がその部屋にいる時ではなく、たとえば恋人が部屋にくる時であるときであるのと同じように、人の目なしに物事が自分の限界を超えて成長することはあり得ない。

我々は、自分1人で生きているのではない。社会的存在である我々人間は、他者との関係の中で生きて行かざるを得ないし、これからもそうなのである。

だから、このブログに期待してほしい。半端なことを書くつもりはない。

いざ書くとなったからには、それに最高の「名前をつける」ことができるよう、自分の全身全霊をぶつけていくつもりである。

 

書いていて感情が楽しむようなことのみを書いていく。

ここでいう感情とは、私の最も根源にある、言語も経験も思考もいずれもその下位に位置する、もっとも深く、もっとも大事にしたいと思える領域のことを指している。

繰り返すが、このブログの目的は学んだことのアウトプットである。

アウトプットとは、外部の人、本、旅などから得られる知見を自分の中にとりこんで

それを言語形態として表現することで、その自分の思考を言語という世界の中で通用するようにすることだ。

それはつまり、自分の学んだことはアウトプットによって、言葉で「定義」されるということになる。

定義の営みなのだから、それは当然慎重に、できる限り深いバックグラウンドに基づいて行われなければならないのはいうまでもないが、
その出力の最後の段階として、それをしている最中の自分がどう感じながら文章を書き連ねているか、
その感情を伴うこのアウトプットはいわば「ひとつの学習の最後の仕上げ」である。
文体や表現の仕方といった方法論(レトリック)は、真実をより明瞭に語る道具として重要である。しかし、それにとらわれすぎてはいけないし、またそもそも、どんなに方法論を究めたところで、どんなにいい材料(それまでのインプットで得た知見)が準備されていなければ、語るものがない。
優れた材料と思考の料理法が揃う時、それこそが何度も味わいたくなるような、味わい深い料理ができる瞬間となるだろう。

その際必要になるもっとも重要な方法論の1つが、「感情がよろこぶようなアウトプットのしかた」を心がけるということだ。

なぜならそれを思い出すために、私たちはアウトプットするのだから。思い出して楽しくなるようなアウトプットの仕方をすれば、それに触れる機会は当然多くなる。触れる機会の増加ということは、その概念を大切に扱っていくことにつながるだろう。

 

ちょっと話がそれるが、言語というのは突き詰めると、人間が自然を征服する際に用いた、もっとも偉大な「道具」であるということができる。これは、この世界に存在するモノや概念、行為や感情といった人間が認識しうるすべてのものに「名前をつける」ことを通して本来境界のなかった概念の「境界を明確に規定」し、人間が容易に知ったり、思い出したり、それを基礎として考えたりできるようにしたものである。その際たるものは 数 であることは、文系の大学で現在学んでいる私がその存在を忘れたり軽視したりすることがあったりしてはいけないと思ったので、ここに記しておいた。

ということから考えると、本なり講義なりでインプットした私の頭の中にある「漠然とした何か」(これを私はこのブログの中で「脳内の未決定概念」と今後呼ぶことにしたいが)は、しばらくたって、これからもそれを運用していきたい、自らの思考の材料していきたいと思うのであれば、ある程度たまったら言語を用いて定義してやらないといけないのである。

「いやいや、そんなことせずともちゃんと勉強したから大丈夫だよ!しっかり本も読んだし、それで十分じゃないか!わざわざブログに文章として起こす必要なんかないんだよ!」

そういう風に考えたのならば、たとえばあなたの部屋の整理の仕方のアナロジーから脳内というものの理解を試みるのがいいだろう。

エントロピー増大則から考えて、部屋というものは放っておいても散らかっていく。まして、外部からだんだん物が持ち込まれれば、必然的に整理は難しくなっていく。ちょうど、自分が何かをやらかしてただでさえ自分の考えがまとまっていない状態のところに、さらに別の頭を悩ます案件が飛び込んできて、もう、分かるかーーー!、というのと似たような状況である。そして部屋を定期的に掃除してやらないと部屋は散らかっていく一方なのとちょうど同じように、脳内もある考えを言語化し、それを「名前をつけてその境界を規定する」作業をしてやることが、まさしく脳内の整理整頓をしているということなのだ。

この言語化され、名前が付けられた概念は、

まず「そういう考えがあることをはっきりと理解できる」他に、「その考えを思い出すのが容易になる」、そして

「その考えを新たな視点として物事を考えられる。つまり、あることを思考するときに、まったくのゼロから考えるのと、『前考えたことに基づいて考えるならこれはこうだけど、でもこんな気もするなあ…』といった風に、単純に頭の働く量が倍になるのである。この前提知識が増えるほど、物事の見方は多様になっていく」

といった、一石三鳥となるメリットを持つこととなる。

部屋の掃除と同じように、散らかりの度合いをどれくらいまで許容できるかは、人それぞれ異なるところだろう。潔癖症に近い人もいれば、ある程度散らかってた方が帰って落ち着く、という人もいると思う。だから、特に私のような、散らかってる方が落ち着くぜ!なーんていってるタイプの根元からずぼらな人間は、それでお金をもらっていないうちは、無理にアウトプットしようと思う必要はないと思う。脳内が未決定概念で散らかってきた、落ち着かない、と思ったら言語化すればいいのだ。インプットの量が増えれば、自然と掃除の頻度も上がっていく。それでいいのだ。部屋もアタマも暮らしの一部、流されたって構やしない。そんなスタンスでやっていければ理想だろう。

ただし、散らかりっぱなしにしておくのは、特に脳内の整理整頓という観点から見た場合、絶対に良くない。部屋が散らかり尽くした時は、その時は最後の手段として、大量に物を捨ててはい!スッキリしたーーーとなるあの爽快感は、突き詰めると、捨てたらまずいようなものを捨ててしまった場合もお金ですぐに入手できるから、そんなものしかこの部屋にはないから、散らかったものは捨ててしまった方が効率がいい、という一種の安心感がその根底にはあるはずだ。

だが、脳内はそんな単純なものではない。そして、その脳が吸収するこの世の叡智というのは、そんな簡単に再びお金で買えるような代用可能なものでは、決してない。なぜならそれには、まだ名前がついていないからだ。それは一度失われてしまえば、もう思い出すことができないんだ。脳内の未決定概念、それに名前をつけるのは、他でもないあなた自身だ。そういう意味で、あなたの脳内に入ったままアウトプットされるのを待っている未決定の概念というのは、いわばあなたがそれに名前をつける前の、世界で唯一の存在だ。大げさな言い方をすれば、概念に名前をつける時、あなたはあなたの全てをかけて、渾身の力を振り絞って、その概念に名前をつけて、この世、この世界にに送り出すのだ。そんな生まれ出てくる前の赤児のような存在を、軽々しく扱っていいはずがない。